1100日の戦い…(1)
2000年11月18日、日立柏サッカー場…J2降格
この日から俺たちの闘いが始まった。

迎えた2001年シーズン
堀井・ピッタ体制はチームを崩壊の一歩手前まで追い込んだ、
攻撃はエメルソンの個人技任せ、守備に至っては統率の欠片もないチーム、
当時の下位チームにはエメの個人能力だけで大勝することができた、
しかし、エメを止める術を知っているチームに対しては、
なすすべなく黒星を重ねていった。
そして7月14日の甲府戦、まさかのドローの後、ついに堀井監督は辞任した。
この試合を小瀬まで行って試合を見ていた私ですら「堀井じゃダメだ…」と思った。
「このままではダメだ…」と思ったフロントは、
この年大分の監督を解任されたJ2の名将・石崎信弘氏を監督に迎えた。
石崎監督は真っ先にチーム戦術に会わないと判断したエメを浦和に放出した。
そして、守備の建て直しから始まったチーム改革はすぐには結果は出なかった。
しかしながら、最終節、山形の昇格を目の前で阻止してその存在感は示した。
20勝21敗3分…勝ち点60の7位でシーズンを終了した。

2002年シーズン
この年、チームは改革を行った、若手主体のチームに様変わりした。
開幕から好調だったチームではあったが中盤に入ると白星と黒星を繰り返した。
その中のは大分戦での0−5の屈辱的の敗北もあった…
しかし、ワールドカップによる中断がチームを蘇えらせた。
後半戦、驚異的な追い込みで上位3チームを猛追した。
そして迎えた第37節セレッソ大阪戦、チームは『等々力満員大作戦』を行った。
当時のチーム史上最多の20405人の観客を集めた試合は
マーロンの劇的なゴールで見事に勝利を収めた。
しかし、このチームは最後の最後で詰めを誤った、次節の大宮戦で痛恨の敗北、
そして負ければ昇格の可能性が消滅してしまう
42節の大分戦にも敗れJ1昇格の望みは絶たれた…
しかし、この年の戦いは天皇杯をきっかけに
「この戦いができれば来年こそは…」と大きな希望を与えたシーズンでもあった。
23勝10敗11分…勝ち点80の4位。チームは成長した、
J1にあと一歩のところまで近づいていた。
そして勝負の2003年へと続く…
Document 2003.11.23
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